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2017年2月

2017年2月 9日 (木)

沖縄よ 許せ!

 かつて、衆参両院で国会議員を務めた宇都宮徳馬氏が、私財を投げ打って発行し続けた『軍縮問題資料』という月刊誌があった。私も連載コラムや署名記事を書かせてもらっていた。
「トランプ」という名のウイルスが世界に拡散し、
2度の世界大戦の反省から「地球市民」の創造を目指しきたこの60年を、「排他的ナショナリズム」時代の振り出しに戻そうとしている。こうした「アベトラー」時代にこそ、『軍縮問題資料』のようなリベラルなメディアが存在し、世界平和を求める人々の言論プラットホームの役割をすることが求められているが、それはかなわぬだ。

 その『軍縮問題資料』№901988年=昭和63年=5月号)に、母親が『沖縄よ許せ!』と題した一文を寄稿していた。母は1992年(平成4年)に亡くなったが、沖縄で戦死した実弟の思い出と沖縄墓参を通した「非戦・平和・軍縮」の願いが記されている一文を再掲したい。

 

沖繩よ許せ!

松尾清枝

 

 八十歳になる女学校の同級生から来た年賀状のなかに、「戦争の歌は悲しい歌です。せめて私達の世代だけで戦争の体験は終わりにしたいものです」という文章がありました。そして「どうか戦いのない世界を実現するために祈り続けてください」という言葉もありました。

 本当にそう思います。神に祈る最も大切なことは、世界の平和・地球の平和です。思えば、八十年前に生まれた私達は、戦争について十分な知識と理解がありませんでした。戦争を良いことのように思い、連合軍に打ち勝つことが正義と教え込まれていました。忠君愛国の道を選び、軍服をまとっている人をなによりも尊敬したものでした。 

しかし、明治・大正・昭和の三代を生き、年老いた時、大きな過ちが繰り返されてきたことを考えさせられるようになりました。そして、終戦四十三年目を迎えた今、新聞に雑誌に、また人の言葉に、再び戦争が起きる恐れを思わせられ、胸が痛む思いで一杯です。

    *    *     *

 私は明治四十一年、六人兄弟の長女として仙台で生まれました。ロシア文学が好きな父が北海道庁会計課に勤務するようになり、一家は札幌の道庁官舎に移り住んでいました。

 昭和十三年のことです。父と母の期待を背負った次男が北大を卒業して、農林省に就職することが決まりました。父と母にとってはどんなに大きな喜びだったでしょう。弟の将来にすべての夢を託して、三日も四日もいろいろな関係者を招いて、卒業と就職の喜びを味わったようです。そして弟も希望に満ちて上京したのです。

 ところが、間もなく一銭五厘の召集令状、いわゆる「赤紙」が北海道旭川連隊から来たのです。しかし親たちは、それほど長い兵役ではなかろうと楽観していました。必ず生きて帰って来るという願いをもって、帰る日を待ち続けていました。

 しかし、軍隊の手に連れていかれた弟は、どこへ行ってどうしたのか、手紙も自由に出せない厳しい軍律の中で、父も母もその消息を十分に知ることが出来ず、相次いでこの世を去っていったのです。

 ある月夜の晩のことです。結婚して東京・麹町に住んでいた私の所に弟がやって来ました。立派な軍服に身を包み「姉さん、札幌で食べた林檎を食べたい。一切れでもいい。今晩竹芝桟橋まで持ってきてくれ」。月の光の中で、弟はそれだけ言って立ち去りました。その晩一私は買えるだけの林檎を買って竹芝桟橋に行きました。

「有り難う。姉ちゃん、さようなら」

 軍服姿の弟は、月の光の中で凛々しくこう言いました。私はこれがこの世の別れとも思わず「しっかりやっておいで、お国のために立派に死ぬんだよ」、そんな言葉を弟に投げ掛けたのです。そして、良い事をした、良い事を言ったという思いで二時間ほどの道を帰ってきました。

 戦火は激しくなるばかりです。私達も、連日の空襲を避け、仙台に疎開していました。軍部が一億玉砕を強調し始めた昭和二十年五月、「渥美慶彦、沖縄で名誉の戦死」の報が届きました。絶望的な戦況のなか、食糧も弾薬も尽きて、弟は死にました。せめて、あと三ヵ月早く戦争の終結が宣言されていたら……弟たちは死なずにすんだ。広島、長崎に原爆が落とされずにすんだ。そう思うと涙が止まりません。

戦後三十年近くたった夏のことです。沖縄の土の中から弟たちの遺骨が見つかったとの知らせが、北海道の妹たちのもとにきました。妹夫妻がすぐに行きました。健康を害していた私は同行することができませんでした。しかし一昨年の三月、妹二人と娘が私を沖縄に連れて行ってくれたのです。

 終戦四十年たった沖縄は、私に何を見せてくれたでしょう。そこには戦いの道があるだけでした。弟たち兵隊が、朝に夕に逃げ隠れた石の洞穴が。右に左に並んでいました。そして一銭五厘の赤紙で日本各地から呼び出された兵隊たちのお墓が、各県ごとに一軒の家のように大きく造られていました。その一番奥に大きく座っていたお墓こそ、北海道から徴兵された兵隊たちのお墓でした。

 ちょうど、何人かの団体旅行の人々が、持てるだけの花を持ってお墓を飾ってくれました。私達も旅の途中に用意した、弟の愛した花を持ってお墓の前から後から、そして脇から、「よしひこ!」とその名を呼びました。もちろん、何の答えもありません。私たち四人は泣けるだけ泣き続けるのでした。

 沖縄生まれのガイドさんに促されて墓地を出ました。二、三ヵ所の名所を見ましたが、私はただ落ちている石を拾ったり、洞穴のカケラを拾ったりしてお土産にしました。

 米軍の家族の家は美しく色塗られ、芝生は綺麗な緑になっていました。けれども沖縄の人たちの住居は嵐の吹き荒ぶ、日も当たらぬ所に並んでいました。そして、戦いに残された老人が歩いていました。私は心の中で「ごめんなさいね。私達が悪かったのです」と言いつつ、その人たちの前を通りすぎたのです。

      *     *     *

 沖縄で死んだ日本人は二十五万人といわれます。そのうち沖縄県民は、女学生から赤ん坊まで十五万人と記録に残っています。年に何度か日本を訪れる中国残留孤児の方々の辛い話を聞くたびに、私はこの苦しみを味わった沖縄や中国の人々に謝罪し、同時に私達自身が味わった戦争の悲劇に思いを馳せるのです。

 敬愛する内村鑑三先生の最大の祈りは「平和の実現」でした。八十歳になろうとする今、二度とこの世に戦争が起きないように、二度と戦争によって悲しい思いをする者が出ないように、世界の平和、人類の平和のため軍縮の実現を祈り続ける人生でありたいと思います。           
(まつお きよえ・双恵幼稚園前園長)

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