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2017年9月20日 (水)

父親の遺稿(その1)

50年前に亡くなった父・松尾武の遺稿集『神の栄光のために』を出版したのは40年前のことだった。仕事のない終末、妻と徹夜で編集作業をしたことを思い出す。
その巻頭に掲載した「手書きの遺稿」を次兄がデータ化してくれたので、記録のために2回に分けて掲載しておく(原文より改行を多くしてあります)

第八講 契約の神について

「アブラハム、イサク、ヤコブの神エホバ」

人類を無より造り給うた創造主は、創造後の人類を保持し統治し給う摂理者であって、この摂理の中の一つの特別な行為として神は人類と契約を結び給うたのであります。本講においてはこの契約の神について述べたいのです。契約に二種あって、第一は行為の契約であり、第二は恩恵の契約です。第一の契約は人類全体と結ばれた契約であり、第二の契約は神の永遠の御旨(みむね)によって人類の中から選ばれた者と結ばれた契約です。

 第一の契約はエデンの園において結ばれたのです。その時アダムによって代表される全人類は神によって完全に造られたもの、神の像でありました。然し人間には意志の自由が与えられて罪の可能性を持っていたのであります。罪の可能性はありましたが、罪があったのではありません。神自身の像に象られた知識と義と真の聖とを賦与され、心に録された神の律法と、それを成就する力とを持っていたのです。このように道徳的にも完全に創造された神の作品である人間に対して神は一般的な摂理行為をなし給うほかに、一つの特別な摂理行為として契約を結び給うたのです。

 契約というのは二人の契約当事者を必要とするもので、この場合神と人間とを契約の当事者として両者の間に契約が結ばれるのです。当事者の身分の相違のために、この契約の当事者は完全に平等ではなく、言うまでもなく神の意志が先行するのであって、人間の側は神の申し出に応じて契約の当事者となり、示された契約の条件を承認して契約の締結がなされるのであります。 発意は神の側にありますが人間の側の応答を俟って契約は成立するのであって、契約が締結されると契約の条項を神も人間も共に尊重しなければなりません。神がこうした契約関係に入るということは確かに神の側における自発的謙遜であると言わねばなりません。

 エデンの園で「主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取ってよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と創世記第三章に記されていますが、ここに神の豊かな一般摂理の支配の中で、更に一つの特別は摂理行為としてなされた人間に対する神の契約があるのです。禁断の実の律法、それを犯すならば必ず死ぬ、と表現は簡略ですが、その意味の全体を考えると、この表現の側面には若しこの律法を守るならば必ず生きるという他の半面がある訳です。神は今何のためにこの特別な一つの律法を与え給うたかと言えば、人間にこの生命(いのち)を与えるためであったのです。

 この生命とは何でしょうか。創造された状態のアダムが既に持っているところの生命でしょうか。それともその時の生命よりもさらに高いすぐれた生命でしょうか。人間の高い、真の生命すなわち永遠の生命は完全創造ではあったけれども蛇の誘惑に負けて己の可変的な自由意志を悪用して罪におちるという可能性の状態にあり、そのような結果になったアダムの創造直後の生命よりももっと高度の生命であるということは、第二のアダムたるキリストに於ける人間の再創造の事実から明らかであります。それで、アダムがこの生命を守ることによって期待しうる神よりの報いとしての生命は永遠の生命であったというべきであります。永遠の生命は人間の魂が神の愛を受け、神と交わり神を永遠に喜ぶ状態であります。これがこの時の契約の約束のものです。

 然し若し、この命令に背くならば永遠の生命を与えるという契約の中の約束は破棄されて、反ってその反対の結果である永遠の死がその罪の罰として与えられる、という意味であります。ここに言う死は明らかに律法違反の罰としての死であって、罪と無関係に考えられる単なる生物学的死でなく、その死は肉体的死と精神的死をも含む永遠の死であります。それは人間の魂が神の愛を離れて神との交わりを絶たれた状態であります。

 このようにエデンの園で神が人間に命じ給うた「善悪を知る木からは取って食べてはならない」というこの特殊な律法は、実は神が人間をより高い生命に入らしめようとして与えられた契約における条件であったのであります。この条件はこのように人間が自らなす完全な服従でありました。それでこの契約は行為の契約と呼ばれます。この契約は一定の期間の試験期を持ち、この期間における人間の行為の善悪によって生命と死の何れかの途が展開される訳であったのです。神は、食べるな、死ぬから、と命じて人間が服従によって永遠の生命に到る途を指示されたのでありますが、人間は蛇の誘惑、即ち悪魔の誘惑に負けて、神の命令よりも自分の意志と判断と欲望の命令を主として、遂に神に叛き神の命令を踏みにじったのであります。

 この契約においてアダムは人類の代表として行為したので、アダムが今から辿るべき死の途は全人類の辿るべき道となったのであります。神は再び行為の契約を結ぶことを欲し給わず、事実アダムに於いて罪におち、その罪ある腐敗した性質を遺伝されている人類に行為の契約が提供される余地は全然ないのであります。全人類は第一の契約の歴史的結果に従って罪と死との道を、ただ一人例外なく、歩ましめられているのであります。これが第一の契約の締結とその結果です。

 人間が心の中に罪なき神の像を持ちながらどうして善を選ばずして悪を選んだのか。又、こうした結果になるような契約を神は何故に締結し給うたか。これらの問題は有限な人間の理性には解き得ない秘義であります。摂理の知恵を完全に理解し得るものは神ご自身の理性だけであると言わねばなりません。私たち人間はこれらの秘義を解く力はありませんが、然し神をかかる契約の神として知り、神は人間をして神を祝福にまた報酬として喜ばしめ永遠の生命を得しめるために自らの自発的謙遜によってこの行為の契約を結び給うた、という点を覚えたいと思います。此の点は「告白」=ウエストミンスター信仰告白に次のように言われています、「神と被造物との距離はまことに大である為、たとい理性的被造物は彼らの創造主である神に対して服従の義務を負うとはいえ、彼らが自分の祝福また報酬として神を喜ぶことは、神が契約によって表す事をよしとし給うた所の神の側のある自発的謙遜によらずしては決して出来なかった。」(七章一節)

 第二の契約は人類堕落の直後に結ばれました。第二の契約も第一の契約と同様にその与えようとするものは永遠の生命であります。契約の当事者は神と人間でありますが、この場合は人間は罪人であります。但し罪人である人類全体ではなく、罪に落ちている人類の中から神が永遠の選びによって生命に選び給うた者であります。この契約はすべての人に提供されますがその契約が真に締結されるのは選ばれた者に対してであって、それで人類の中に永遠の生命に至らない者があるのです。この契約における条件は人間の行為ではありません。人間は行為の契約において罪を犯し堕落し、行為の契約によっては生命に到りえないものとなったために神は第二の契約を結ぶことをよしとし給うたのですから、この契約における条件は人間が自分でなす義なる行為ではなく、それと全然異なったものであります。

 それは信仰です。信仰というのは自分自身の行為と正反対のもので、信仰それ自体には何らの価値がありません。この信仰とはキリストへの信仰です。キリストへの信仰を持つことがこの第二の契約の場合の条件です。契約の一方の当事者である罪人は自分自身の義は必要でなく、ただキリストを信ずることが条件として求められ、この条件を満たすときに契約に従って永遠の生命が与えられるのです。然しこの条件となる信仰は義と無関係のものでは決してないのであって、いな却って完全の義を受ける導管であって、信仰という導管によって罪人に受けられる完全の義はキリストの持ち給う義です。このキリストの義を信仰によって与えられるのであります。

 このように信仰というのは言い換ゆれば信仰によって賜る賜物としての義なのです。義を持たない罪人の罪をキリストによって赦しキリストの完全の義を賜うという神の御心は全く恩恵的でありますからこの契約は恩恵の契約と呼ばれるのです。神と罪人の間にこうした条件を以て、神は罪人に永遠の生命を与えるという約束を持った契約が結ばれるのです。この場合キリストが神と罪人との間に立ち、契約の仲保者となり給うのです。キリストの仲保なしにはこの契約は締結され得ないのです。このキリストの仲保の務めについて語ることは神の救いの御業そのものについて語る救済論となりますので直接には神観の問題ではありませんが、神はこの神と罪人との契約の仲保者としてイエス・キリストを任命し、人類堕落の直後このことを宣布しその到来を約束し給うたのです。罪ある人類に対する神の恵みの契約は人類堕落の直後に結ばれたというべきであります。こうして創造後の人類に対する神の摂理の業は、一方において一般的に全人類を保持し統治し、更に特別摂理として選ばれたる者のためにその罪よりの救いと永遠の生命の付与を目的として行われることとなったのです。

 人類の歴史は一方には行為の契約の条件を満たさなかった罪の人類をも直ちには滅ぼさずして、これを保持し統治し給う神の一般摂理の一般恩恵の下に展開し、同時に人類の中の選ばれた者のために働く特別摂理の特別恩恵の下に展開し、前者は神の一般恩恵にも拘らず遂にその罪の故に永遠の滅亡に到る運命にあり、後者は地上生活における罪と様々の苦難にも拘らず遂にはキリストによる救い故に永遠の生命を得、歴史の終末を経て遂に栄光の新天新地に到るというこの二つの流れの展開する場であります。人類をまどわした悪魔なる蛇に神は「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕く」(創世記三ノ一五)と告げられた。ここに原始福音があったのであります。

 女のすえ、即ち人類の中から出ずる者が悪魔の頭を粉砕することを語るこの神の宣言は福音すなわち恩恵の契約の第一声というべきものであります。こうして以後の聖書はこの恩恵の契約の発展を語っておりますが、聖書を大別して旧約と新約と呼ぶのはこの恩恵の契約に関して旧いものと新しいものと言う意味であります。恩恵の契約は神を信じキリストに寄り頼む民に対して幾度か結ばれて神の民の救いの確信を堅くするのですが、特にアブラハムに対する契約とモーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民に対する契約は著しいものであります。

 神はアブラハム、イサク、ヤコブに対する契約を忘れずしてエジプトで苦悩するイスラエルの民をモーセを用いてエジプトより引き出して約束の地カナンへと行かしめ給うたのであってそれは出エジプト記一九章以下二四章までに記されています。この契約の締結に当たってモーセは犠牲(いけにえ)の血をとって民に注ぎかけ 「見よ、これは主がこれらすべての契約の言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」と言ったことが記されています。 新約聖書のヘブル書の八章九章を読むとモーセがこの時用いた契約の血は動物の血であったが、これはキリストが自ら流した給うた贖罪(しょくざい)の血のひな型に過ぎないのであって、モーセによって制定された儀式は本当のものの影であり、実体はキリストとその贖罪の十字架であることが教えられています。

 そして前者は旧い契約であり、後者は新しい契約であると言われています。これが旧約と新約の意味であります。旧約時代においてはこの契約はユダヤ民族に与えられ、新約時代においてはユダヤ人と異邦人の区別なくすべての国人に提供されておりますが、旧新約両時代を通じて恩恵の契約に入る者は神に選ばれた者だけであると言わなければなりません。

 恩恵の契約を遺言という名をもって示している聖書の箇所があります。ギリシャ語のディアセーケーを契約とも遺言とも訳することが出来るが、どうしても遺言と訳しなければ意味が通じない箇所があるのです。ヘブル書九章一六節には「いったい遺言には遺言者の死の証明が必要である。遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は効力がない」と書いてあります。これは明らかに恩恵の契約である旧約と新約を遺言という点から説明したものでありますが、然し契約という言葉に代えて遺言という言葉をもってこの恩恵の契約を指す言葉とすることは誤りであると言わねばなりません。ところが英語などでテスタメントというのは遺言という意味です。遺言は遺言者が死ねばその効力を発揮し、遺言者の一方的発意と措置を示していて恩恵の契約の恩恵性を強く示しますが、契約という理解が聖書的であります。

 神が罪人に対して恩恵の契約を結んで、罪人に何らの功績をも求めずただ罪人に代わって完全な義を神に捧げ給うたキリストに対する信仰のみを条件とし永遠の生命を与えることを約束し、その必要なる条件としての信仰は神が自ら御霊(みたま)を与えてこれを起こさせ給うということは徹頭徹尾神の恩恵であることを知ります。その恩恵とは罪人に対する神の愛であり、罪人に対する救済意志であります。この恩恵は創造の秩序においては不必要であり、考えられないことであり、創造秩序と堕落後の一般摂理を自然と呼ぶならばこの恩恵は超自然であります。この超自然的恩恵を私たちは神の善から引き出すことは出来ないのです。恩恵の契約における恩恵は神の善の中にあり、同じく善の中にある一般恩恵とも通ずる恩恵でありますが、その愛心(?)が神の怒りに値するのみである不信と不義の罪人へ向けられるところには自然的理論を以て推し量り要求することのできない超自然性があると言わねばなりません。そして一度この神の超自然的恩恵意志が発動した時、神の属性はこの一点を中心として驚くべき一大活動に入ったのであります。これが契約の計画とその歴史的実現であります。

 神は契約の神として己を示すとき己の名を示し給うのです。その名がエホバです。エホバという名はもちろん人間に分かるように人間の言葉を以て綴られたものであります。神は人間の言葉を用いて私の名はエホバであると告げ給うたのです。出エジプト記三章一三節から一七節に「私は有って有るもの」 又「私は有るというかた」とありますが、この私は有って有るものがつまって更に一人称から三人称になった形がエホバであります。エホバという発音は正確ではなく、この四つの字音から成る名の子音と主(アドナイ)という語の母音をくっつけたものがエホバとなったのです。昔から神の名を読むときに主(アドナイ)と読んでいたのですが、一六世紀の宗教改革の頃から今言ったような仕方で神の名をエホバと呼ぶようになったのです。本当の発音は誰も知らないのです。神の名をみだりに呼んではいけないという所から神の名を畏れて呼ばないでいる中に忘れられてしまったのです。近代の学者の研究によってヤーヴェという説が出ているのですが教会ではまだヤーヴェとは呼んでいません。日本語口語訳では今までのエホバからまた主に逆転しています。

 このように神の名を埋没させることは聖書の意味を不明瞭にし信仰的に損失であると思います。エホバと書いて主と読むようにしたがよいと思います。契約の神の名の発音はそういう問題を持っていますが、その意味は何かといえば、神の永遠的自主的存在者という解釈が告白制定の頃の理解であったのですが、最近の研究によってもっと歴史との関係において歴史の主権的支配者という解釈が採られています。歴史を主権的に支配する者であって、言葉の意味も「私はあろうとする者であろうとする」 「我あらんとする者」となるのです。歴史支配者は歴史の中に救済の意志を成就しようとするのであって、歴史の中に救済意志を己の欲する通りに実現する者と言う意味であります。これがエホバの意味であって、この名がイスラエルに対する神の救いの約束の裏付けとなったのであります。神がこの名を以て呼ばれる時は単に天地の創造者、歴史の一般的摂理者でなく、イスラエルの救済者であり、その救済の約束を歴史の中に必ず実現する神であります。それでこの名は契約の神の名と言われるのであります。神がモーセを遣わして彼によってイスラエル人をエジプトから救い出す、とモーセに言われた時、モーセは神の名を聞いたのです。

 神様、イスラエルの人がお前を遣わした神の名は何か、と問うたならば何と答えましょうか、とモーセは神に答えて神の名を問いました。名はものの実を表わすものとして考えられているのです。神からこの大きな困難な使命をとれとの命を受けた時、モーセは神の名を聞きたかったのです。結局、神様あなたはどういう御性質、御意志の故にこの約束をなしこの命令を私に与え給うのですか、ということを聞く意味で、あなたの名を何とイスラエル人に告げましょうかと言ったのです。それに対して神は、私の名はエホバである、と答えられた。そしてその名は神の約束の民にとって「永遠のわたしの名、これは世々に我が呼び名である」(三ノ一五)と仰せられたのです。

 イスラエルは契約の神を知らなかったのではありません。アブラハム、イサク、ヤコブの神として知っているのです。それで契約の神の名はエホバであることがこの時以前に、アブラハムよりも以前に示されていたと考えることが出来るのでありますが、そのエホバなる名が今ここに再確認され、否、この救済史上最も大きな事件の一つである神の民の出エジプトに当たってその名が神の約束の大いなる裏付け、保証として今までよりも最も明白に示されたとみるべきであります。四百年の間エジプトの地で、啓示なき悲惨な生活の中にあったイスラエルの民には神の名のこの著しい啓示が必要であったのであります。この名は「永遠にわたしの名、これは世々にわが呼び名である」と言い給うのです。私たちは畏れと感謝を以てこの神の名を呼ばなければなりません。

 右に述べましたように、契約神の名は聖書を読むときに主(アドナイ)と読まれ、又ヘブル語聖書がギリシャ語に翻訳された時ギリシャ語の主を意味するキュリオスという語に置き換えられたのであります。こうして主という言葉はもちろん一般俗用には主人というような意味で目上の人間に用いられるのですが、神を主と呼ぶ宗教的な用い方もあるのであって、この宗教的な意味の主という語はエホバの代用語となったのであります。新約聖書でイエスを主と呼ぶことの重大な意味はこの事実にあるのです。あらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する、ということがピリピ書二章一一節に言われていますが、この主とは旧約聖書のエホバの代用語であったというのが新約聖書が書かれたころの事情であったのです。その点を考えますと、イエス・キリストを主と呼んだことは、少なくともキリストの神性を承認したことを意味していると言わねばなりません。そうすると、イエス・キリストとエホバはどういう関係であるかが問題になります。

 旧約聖書ではエホバなる神の唯一性を最も強く教えています。「イスラエルよ聞け。われわれの神エホバは唯一のエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神エホバを愛しなければならない」(申命記六ノ四、五)とあるのです。これは勿論ほかの神々すなわち周囲の民の神々につき従うことがあってはならない、エホバのみを全心全力を尽くして愛しなければならないという意味であります。然し唯一のエホバというのは三位一体の神観とどういう関係であろうか、という問題があります。神はその本質において唯一的存在であり、この唯一的存在者は人格的でありますから、神はただ一人であって他に神々と呼ぶべきものはない、と言えるのです。然し神は人格的には父・子・聖霊の別があるので、神が私と呼び給うときは三人格の共通の言葉としてか、或いはどの人格かが同じく唯一の神を表わすものとして、私と呼んでイスラエルの民に語りか掛け給うのであると言わねばなりません。

 それで唯一(ただひとり)のエホバというように唯一の人格的神は三人格でなく一人格であるかのような表現も生まれるのですが、このことは唯一の神の三人格性を否定していると受け取る必要はないのです。エホバはもちろん一人格的唯一神でなく三人格的唯一神であって、第一人格として、或いは第二人格として、或いは第三人格として唯一の神として語り、またある時は複数人格としての言葉もあるのであります。即ち創世記一章ニ六節には「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り』」とあるのです。旧約聖書において特にその唯一性を示し教え給うた神は新約において三人格を啓示し給うたのであります。

 これは三位一体の神の三人格の間の贖罪(しょくざい)の計画に従って神が罪人と結び給う恩恵契約の仲保者に定められた第二人格なる子なる神が、時満ちて人間となって地上に来たりイエス・キリストとして神と罪人との恩恵契約の仲保者となり自分自身の血を流して契約の保証となり、遺言者の死を遂げ給うという恩恵契約の完全なる実現の時となってはじめて鮮明に啓示されるに至ったのであります。人として生まれたイエス・キリストが実は神性の所有者であることが証拠立てられて、イエス・キリストは第二人格の神であって人性を取って地上に来られた方であることが信ぜられるに至ったのであります。

 新約聖書的信仰はイエス・キリストを主なりと告白し、神の子として崇め服従することにあります。こうしてイエスはエホバであります。旧約時代はエホバと呼び給う神は新約に至って人となり地上に贖罪の十字架を負うべき第二人格をも含めた、というだけでなく、特に第二人格において救いの働きをなし給うところの三人格唯一神性なる神であったのです。この三一の生ける真の神が第一の行為の契約によって永遠の生命に到りえなかったところの今は堕落した罪人を救い、永遠の生命に到らしめるために第二の恩恵の契約を結び給うたのであって、神は救わるるすべての者にとってまことに恵み深き契約の神であります。救わるる者はすべてこの恵み限りない契約の神エホバの名を知り、エホバのみ名だけを神として一心に愛し、エホバの命じ給ういましめに従って生活しなければならないのです。ここに契約の民の信仰生活があるのです。このことを出エジプトの後、約束の地カナンに入る前に、広野においてモーセを通して語られた神エホバの御言葉を以て切々として諭し示すところの申命記の中からただ数節を最後に引用したいと思います。

「イスラエルよ聞け。我々の神エホバは唯一のエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神エホバを愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、務めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」(申命記六ノ四から九)

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