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2017年9月

2017年9月20日 (水)

父親の遺稿(その2)

 第九講 聖定の神について

ー聖定・予定・選び、土くれと陶器造りの譬(たとえ)ー

 聖定については既に言及するところがありましたが、これは聖定を知らずして神と世界との関係についての他の如何なる教理も十分に理解されないからであります。

 聖定教理の内容について詳しく語ることはしませんでしたが、神は己の永遠の御旨(みむね)の中に世界像を思い定めてい給うという聖定の事実は、神と世界との関係の最も根元的なものと言うべきであって、創造も、摂理も、契約も実はこの聖定に基づいてなされる神の行為であります。聖定は永遠的神の永遠における行為であり、創造と摂理は永遠の神が時間的な歴史との接触面において行為し給う所の、言わば永遠的ー時間的行為であります。神は永遠的聖定行為において決定した世界像を永遠的ー時間的行為である創造と摂理の行為によって時間の中に歴史的世界として現わし給う、ということが出来ます。このように神と世界との関係を示す創造教理も摂理教理も又契約教理も 実は更に根元的なこの聖定教理との関係において理解される時初めて十分に理解されるのです。それで本当は、論理的順序から言えば、聖定教理は創造教理の前に来るべきであります。告白(=ウエストミンスター信仰告白)の順序はそうなっているのです。

 然し私は本書の内容を厳格な論理的論述とするよりも信仰上の実際問題のあり方というものを考慮に入れたものにしたいと思ったため、一般的によく知られている創造と摂理と契約について先に論じたあとで、最後にこの聖定教理を本講において語ることが適当と考えたのであります。或いは救いの教理と信仰の教理を語った後が更に適当であるとも言えるのですが、この点は考慮した上で語りましょう。

 神は世界に対して聖定の神である、ということは既に論じたところから当然のことと言わねばなりません。然し第七講の摂理論の時に聖定に言及して言ったように、この聖定教理は昔から多くの論議を引き起こして来ております。そして聖定信仰は必ずしもすべてのキリスト教信者によって信ぜられておらず、むしろ所謂カルヴィン主義キリスト教に特殊なもののように多くのクリスチャンによって冷遇され、無視されているのが、今日の教会の状態であるとも言えましょう。然し私はこの教理は明白に聖書的な教理であり、正しい神観に不可欠なものと信じます。またこの教理は改革派信仰の旗印ともなっている歴史的伝統的信仰であり、更に又教会史的には第五世紀のアウグスチヌスに迄遡る教理であって、教会歴史的に言ってもこの信仰こそキリスト教信仰の正統信仰であります。

 このように、神の聖定という教理は聖書的な、また正統的な教理として私たちが当然信じなければならないものでありますが、然し告白でもこの教理は高度の秘義に関する教理であると言っているのであって、その取り扱いは、特別の慎重さと配慮とを以て為されねばならぬ、と注意を与えているのであります。私は自ら聖定教理の難しさを知り、深く感じながら、しかし自分の救いの客観的確かさがこの聖定教理にあることを段々深く確信して、そしてこの教理を自分の信仰生活に如何に用いて真の益を受けるかについてもいくらか知識と経験を与えられるところがあり、今日この教理が、明白に聖書的教理であるに拘らず、多くのクリスチャンによって無視され、或いはこの信仰を求むる者が種々の困難を感じてこれを信じえないでいる事を思う時、ここに意を決してこの真理のために信仰の伝統的戦いに参加して、聖定教理の旗を鮮明に掲げたいのであります。神よ、どうか予定信仰を与え、御栄えのために、この信仰を語らせてください。

 聖定教理は歴史観として明らかに決定論的歴史観であります。しかしこの決定論は言うまでもなく有神論的決定論ですから、決定論という一点だけから見られるとき誤解が生じて非難の的とされるのであります。聖定をいわゆる運命的決定と同視することは根本的に誤解であります。運命という考え方にも色々あるでしょうが、結局、運命は神と異なるものであって、運命的決定は神という人格的存在者が意志する最も知恵あり最も聖なる計画によるところの決定ではなく、非人格的な、無目的的な決定なのであります。この非人間的、盲目的決定論、或いは偶然がすべてを決定するというような偶然主義的な運命的決定論に対しては人間の人格的自由と目的的行為の擁護と主張のために強い反論が投ぜられることは当然であると言わねばなりません。しかし、この反論が聖定教理に向けられるならば、それはお門違いと言わねばなりません。右に言ったように聖定ということは運命的決定と根本的に異なるものだからです。然し聖定は運命ではないことが分っても、多くの思想は聖定教理に対して一様に反抗の叫びを挙げているのです。

 聖定教理は人間の自由意志を否定するものでなく、第二原因(=人間の決定意志)の種々の働きを否定するものでなく、また神を罪の作者とするのでもないのですけれども、その点に疑義と不安を感じる者が多いのです。然しそうした疑義と不安は根本においては矢張り聖定理論の本質に相容れない自分の考え方が原因ではないかと思います。人間の人格の自由を主張するにしても、もし人本主義(ヒューマニズム)の立場に立って、歴史を作るものは結局は人間である、と主張して、より究極的には神が歴史を作るのであるという点を受け入れないならば、当然聖定教理を理解することは出来ない。聖定教理は人間の自由意志を認めるけれども、人間の自由意志による行為が或る場合どう決定するかが神の意志によって決定されていると主張するのですから、ヒューマニズムの歴史観と相容れないのです。

 或いは又、歴史は人間がおかれた自然環境、あるいは経済社会的環境に支配されて作られるというような歴史観も、たとい一種の必然論的決定論の形を取っても聖定教理には反対しているのです。聖定教理を承認することは、歴史における人間の人格的自由行為と原因結果の法則を認めるとともに、更にその背後に神の意志が歴史の第一原因として自由に働いて歴史を不可変的に決定していることを承認することです。それでこうして聖定教理は聖書的な活(い)ける真の神を信じて始めて受け入れられるのであり、聖書的な神を信じないでは単に知的に理解することすら出来ないのであります。このことはすべてのキリスト教教理について言い得ることですが、聖定の教理に関しては特に著しく感ぜられるのです。

 聖定教理に対する神学上の反対説の一つは聖定という名を残してその内容を変えようとします。これは予知説と呼ばれるものです。神学者アルミニュースが唱えたものですが、それは聖定は予知に基いてなされると言い、かかる聖定以上には聖定を否定します。つまり歴史の中の人間の行為は自由であるべきであって、それが真実に自由であるためにはその自由行為が何であるかが神によってあらかじめ決定されてあるべきではないと言うのです。それでは人間の自由に対して神はどういう関係を持つかと言えば、神は人間の自由意志の決定の結果が何であるかを予め知っている、というのです。それで神が歴史像を決定し給うという聖定はこの歴史的事実に対する予知に基づいてなされる決定であって、神が自ら歴史的事実を予め自分の意志行為として決定するのではない、と主張するのです。世界とその歴史が神の聖定であるというのは神がこの予知に基づいて世界像を作り給うことである、という説であります。然しこれは最早、聖定教理と呼ばるべきものでありません。この説の根本動機は人間の自由は神の意志から独立でなければ真の自由でない、という所にあります。この根本的仮定は神と人間とを対等に考えるという、もっと根本的な誤りに立っていると言わねばなりません。聖定教理は一方、人間の自由を認めるとともに、更にこの人間の自由決定の結果を予め決定する神の永遠的聖定があって、これが永遠的世界であると主張するのであります。

 将来的出来事に対する神の予知は勿論あることです。然しその予知は聖定に基づくもので、聖定の次に来るのが正しい順序です。しかし予知を聖定に先行するものとして理解することもあり得ます。その場合の予知は神が己の意志を働かせて世界像を決定し給うときは既に決定される像の内容を知ってい給う筈であるという考えであって、これは心理的に意と知との前後関係ですが、むしろ意志行為は知的活動と不可分に結合していると考えるだけでいいのではないでしょうか。然し予知というものは活動的な働く力を持つもの、すなわち生産的予知であると理解して予知を最も根本的なものとして予知すなわち聖定とも考えられるのです。ロマ書八章二九節には「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子(みこ)のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めてくださった」と言われています。ここの予知と予定との内容は只今の問題と同じものではないのですが、予知あるいは予定という言葉の色々な用い方があるのを示しています。然し予知説の過ちは、神の予知の対象を神の意志から独立な人間の自由行為として、神はその事実を予知するだけであって意志を以て決定はしないと主張して結局、聖定の否定でありながら、聖定の名を保とうとし従来の聖定教理に代わろうとした点にあったのです。

 この点は聖定の内容の重大な一点である選びの教理に関して起こったのであって、神がある者を救いに予定するという選びは神が歴史の中で誰が信仰を持つようになるかを予知して、その予知された信仰のゆえに選ぶのである、という主張をしたのです。これに対して神の選びは信者を予知してなされるものではなく、人間の中には神を選びの意思決定に動かす原因は何も存在しない所になされる選びであって、無条件的選びこそ聖書的選びである、という宣言がなされたのは十七世紀に欧州の全改革派教会の代表者が集まってなしてドルト会議の宣言であって、このとき無条件的選びとそれに関連する諸項目が決定され、これが有名はカルビン主義の五点(TULIP Total depravity、 Unconditional election、 Limited atonement Irresistible grace 、Perseverance of the saints )と呼ばれるに至ったのです。

 聖定教理は歴史を人間の自由行為として見るとともに、その背景に神の自由意志による不可変的決定がある、というこの内面を歴史に関して主張するのですが、これは結局一つの歴史は人間の側からと神の側からと見られる楯の両面を持ち、そこに自然的人間学的見方と宗教的神学的見方の二つが併存する、というようなものでしょうか。そうではないのです。歴史には神の意志と人間の意志とが共に働きますが、その両者は一体にして表裏をなすもの或いは楯の両面、或いは一つの事物に対する二色の色の照明という関係ではなく、人間の意志は神の意志に従属するものであります。この点をよく知ることが大事です。歴史は一面から言えば人間が造り、他面においては神が造ったというのではなく、歴史という現実は人間がこれを造ろうとする計画を神が支配して、神が自分の計画によって造り給うものであります。世界に対する神の聖定は単に決定ということだけではないのであって、その決定は神の計画により、目的を持っている決定であって、これが聖定の内容であり、世界像の決定なのであります。

 即ち罪ある人間は自分の罪に汚れた計画により、自分の種々の目的また誤った目的のために行為して歴史を造ろうとするけれども、歴史は人間の計画の通りにはならないで、ただ神の聖定が神の創造と摂理の業を通して実現するのであります。この聖定の歴史化のためには人間は神の創造と摂理の支配の中にあって神の意志がよしとし給う限りにおいて存在し、また行為して神の聖定の歴史化のために御旨(みむね)のままに用いられるだけであります。こうして生まれるのが歴史であります。その形成の過程において神は人間の意志と計画と目的とを或いは用い、或いは越え、或いは反し、或いは破壊し、或いは許容し、神は己の永遠的決定による永遠的世界像を時間の中の世界像として実現し給う。時間の中の世界像の実現は究極的に言って全く神の業であります。それで全歴史は神の知恵に貫かれ、歴史の終結に神の大肯定があるのです。これが歴史の本当の像であって、人間が歴史を見るときもこの歴史像を探究しなければならないのです。聖定教理は歴史を神の側から見ることが盾の一面である、というのでなく、神の決定の中にある永遠的世界像こそ唯一の真の世界像であることを主張するのです。私たちは世界とその歴史の中に神の知恵と力と義と愛とを見出すときに真に世界と歴史を知る者なのです。

 パウロが「万物は神から出で、神によって成り、神に帰するのである」(ロマ書1章三六)と言っているのが真の歴史であり、それは神の聖定としての歴史であります。歴史の中に人間の自由な人格とその活動の真実性を認むべきであり、第二原因の真実性を認め、原因結果の関係を探究すべきでありますが、然しそれらの探究はあくまでも神の聖定としての歴史像の探究の原理に従属し、補助となるべきであって、二種の歴史観が独立的に、或いは平行的に併立すべきではないのであります。歴史の全貌は第二原因の領域の中に限定さるべきでなく、神はその創造したものに対して摂理の業(わざ)を行い給うとき、通常の摂理に於いては手段を使用し給うけれども、然し尚、神は己が欲するままに、手段なしに、または手段以上に、又は手段に反して働く自由をも持ち給うのであって、神は自然と歴史の中に奇蹟を行って歴史を完成し給うのであります。聖定教理はその歴史観において明らかに決定論であると申しましたが、決定論はその基底の線であって、その上に立つ歴史は神の聖なる計画であり、その目的は神の栄光のためでありますから、聖定を信ずる者は歴史をこの原理に従って探究し、理解し、経験し、信ずるのであります。何というすばらしい歴史観でありましょう! 私達一人ひとりの人生もこの歴史の中にあるのであります。

 こうして聖定教理によれば、この世界とこの歴史は聖なる神が永遠の御旨の中に決定し給うたものであります。その世界像は現実の歴史的世界とは別の、より高い理想的世界像というようなものではない。聖定の世界像と現実の世界像とは理想と現実というように並行する二つの世界ではないのです。歴史は只一つの歴史です。そうするとこの世界と歴史には罪があります。罪のない世界と歴史は現実に存在しないのです。するとこの世界と歴史とを神が永遠的に自由に不可変的に決定し給うたとすれば、神は罪の存在を定め給うたのであります。聖定はこのことを否定しない、むしろそれをはっきりと肯定するのです。神に対立する対等的な悪の原理の自主的独立的存在を否定するのであって、悪と罪とは神の聖定によらねば存在せず、活動しないことを主張するのです。

 そうすると何というべきか。悪と罪は神から出るのであるか、神が自ら作るのであるか、神はそれを肯定しているのであるか、と色々に言われるでしょうが、罪における人間の責任性と処罰の正当性を取り去るような意味においては罪をその第一原因としての神との関係において考えてはならない、と言うべきであります。そういう結論を許さないという意味において、そういう結論に導くおそれのある表現を告白は否定しております。即ち「神は罪の作者とならず」(告白三ノ一)と言い、「罪の罪たる所が只被造物より出で、神より発しないのである。神は最も聖く義しい故に、罪の作者、またその承認者でなく、又あり得ない」(五ノ四)と言っているのであります。これは聖定と罪との関係を正しく考えるための注意であり、人間の思考力の限界を教えているものであって、これ以上に人間は思索することによって却って知り難い秘義の中を彷徨するのみであります。神の御心に叛き神の栄光を汚す人間の罪が聖定の世界と、歴史の中に神による自由な不可変的決定によって存在させられたということの合理性は神のみ知り給うところであって、人間の理性にとっては秘義である、と言わなければなりません。

 次に選びの問題について申したいと思います。選びは聖定教理の中心的問題であります。これは私たちの救いに関係しているのであります。然し選びの教理はまことに高度の秘義であって、これについて合理的思索を試みるとき心身全く消耗するのを経験するのであります。選びについて神のみ完全に持ち給う追求という行き方でなく、また人間の理性の限界の認識というそのことを把握する哲学的理解の方向でもなく、選びの教理の客観的理解とこの教理の主体的把握という二つの点に分けて申し述べたいと思います。

 聖定による世界とその歴史の中に二種の人間のあることは歴史の事実であります。これは信仰の人と不信仰の人、この世と教会、という相違です。人類はたしかに一つであります。然しその一つである人類の中に二種類の人があるのです。その相違点を一言に言えばキリストに属すものと属さぬ者の相違であります。この二種の人間はたしかに一つの人類に属していて、同じく人間であり、また社会生活を共にし、また家庭において一つの家庭に生活しているのです。しかしそれにも拘らずこの二種類の人間の相違は明らかであり、そしてその相違には重大なものがあるのです。それは人間の終局の到達点についてであって、一つは永遠の生命であり、他の一つは永遠の死であるということです。この究極の姿は現在の歴史の中にはまだ歴史的事実としては明らかには現われていないのですが、この二種の人間の生活の根本的相違とその重大な意味とは種々の点において現在既に現われているのであります。こうした二種の人間生活が一つの人類の中にあるということは聖書が語るところであり、また凡ての人が目で見ることのできる歴史的事実であります。聖定教理によれば、一切の出来事は神の永遠的聖定であって、この二種の人間の存在ということも言うまでもなく神の聖定によることであります。

 これは選び(エレクション)と呼ばれるものであって、選びは聖定の中の一点であって、しかし中心的な、最重要な一点であります。選びは予定(プレデスティネーション)とも言います。救いに選び、救いに予定するという意味であります。これが聖定に含まれているのです。予定という言葉は救いへの予定としてだけでなく、滅びへの予定という場合にも用いられるのであって、二重予定という言い方がある訳です。予定は結局 言葉としては歴史上の出来事が予め定められている、という一般的な内容であります。従って聖定を予定とも呼びます。選びは二種の人という差別という点をある程度表現しております。しかし二種の人の中の救いに予定された人の方を選びと言います。こういうのが聖定(ディクリー)-予定ー選びーという三つの概念の関連であります。

 私は予定という言葉を主として救いに予定する予定という意味で用いたいと思う。予定信仰はカルビン主義の特質とされているのでありますが、予定ということは聖書に明らかに示され主張されていることであります。告白の三章五節は次のように言います。「人類中の生命に選定(予定)さるる者を、神は、世界の基の置かれる以前に、己の永遠的また不易な目的と己の意志の秘められた計画とをよしとするところに従って、キリストに於いて、永遠的栄光に選んでい給う。この選定(予定)は神の単なる自由恩寵と愛とから出て、信仰、善行、またはその中の耐久や或いはその他の如何なる被造物中の事柄をもその条件として、または神をそこへ動かす原因として先見されることなしに為され、斯くしてすべての事は神の光栄ある恩寵に誉あらん為である」。(引用聖句9、エペソ一ノ四、九、一一、ロマ八-三〇、テモテ後一ノ九、テサロニケ前五ノ九。 10、ロマ九ノ一一、一三、一六、エペソ一ノ四、九、。 11、エペソ一ノ六、一二) 

 これが聖定教理の心臓と言うべき予定教理の中心点であります。予定は神の永遠的聖定によるものであり、キリストを基礎としてなされるものであり、選ばるる者を永遠的光栄に到らしめるものであります。これは聖書的神観を信ずる者は当然受け入れられるのであります。然し予定には今一つの面があります。それは人類の中の他の種類の人についてであって、その場合の予定というのは単に予め定めるということであって、それは内容的には滅びに予定することです。それで広義の予定の中には生命(いのち)への予定と死への予定の二種類があって、この意味から二重予定と呼ばれます。この点も聖書的神観に立つならば当然信ぜられることであると言わねばなりません。然し、私たちの信仰上の実際問題として予定と聞くと秘義を感じ、二重予定に思い及ぶと困惑と畏怖を覚えるのであります。

 このように予定には、殊に二重予定には高度の秘義があるのです。然し、この秘義について人間的合理化を試みたり、或いは反発したり、或いはまた単に盲目的信仰として受け入れたりしてはならないのです。予定教理は秘義でありますが、私たちは聖書の啓示に従い、告白にも言うように、人間の救いは神の予定によることと、人類の中に信ぜぬ人々のいることも神の聖定であることを信じなければならないのです。これだけの意味の予定信仰を客観的真理としての予定教理に対する信仰と呼ぶことが出来ましょう。勿論この信仰は聖書的な無限の人格的存在者としての神という神観に立って初めて持ちうる信仰であると言わねばなりません。生ける真の神は聖定の神であり、二重予定の神であり、選びの神であります。

 然しこの神の教理から私たちは何を受け取るべきでしょうか。聖書が与えようとしていないもの、神が欲し給わないものを私たちはこの聖定の神という真理から引き出そうとする過ちを犯すことはないでしょうか。そういう過ちを犯す危険が非常に多いのであります。神の永遠の選びがあるなら救わるる者は何の苦労も努力もいらないではないか、と言わないではおかないのです。亡びが永遠的に定まっているなら何をしても無駄ではないか、キリストを信じても無益ではないか、とすぐに言うのです。神はその選びにおいて公平な原則を破ってはいないか。もし神が自由に二重の予定をなし給うのなら滅びに定めた者に対して責任を問うたり、処罰の法則を適用したりして永遠の死を与えるということは矛盾ではないか、等々の反論を提出しやすいのであります。こうした反論の誤りについては一番はじめに語ったのですが、聖書に現れるこの反論とそれに対する答えとの一例をあげるならばロマ書九章であります。そこでパウロは神は自分の憐れもうとするものを憐れみ、頑(かたく)なにしようと思う者を頑なになし給う神であることを主張して、そして次のように言う、「そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。この反論は今その不信仰を責められその亡びを宣告されているユダヤ人の反論であります。

 キリストを十字架につけたユダヤ人らは救いはだた神の主観的恩恵によることであって人間の側の如何なる誇りにもよることはないというパウロのユダヤ人の誇りに対する批判に答えて、このように反論してパウロの言説の矛盾を衝いた積りでありますが、パウロはこの反論に対して、徹底的な否定を与えています。「ああ人よ。あなたは神に言い逆らうとは、いったい何者なのか。」(九ノ二〇) 人間の立場を考えよ。そして神の立場を考えよ。人間が神に言い逆らうとは? この反論こそ人間が神に言い逆ろうことである、と聖書は言うのです。ここで人間と神との立場の相違が問題になります。その立場の相違は何か、と言えば、人間は造られた者であり、神は造った者である、というのです。ものを造るとき、造り手と造らるるものとの相違は、一方は絶対的主権の意志であり、他は絶対的依存と服従があるだけです。造られた者が造った者に向かって「なぜ私をこのように造ったか」と言うべき筋合いのものではないのです。造られたものは造る者の意志を離れては存在しないからであります。

 ここに土くれと陶造りとが譬(たとえ)に用いられています。陶器師は土くれから自分の思いのままに陶器を造る。その意志によって造られるのが陶器という造られたものであります。陶器を造る者は同じ土くれから一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないであろうか。当然あるのです。誰もこれを拒むものはないのです。陶器はその陶器造りの意志の結果出来たものなのです。造られるということに対して何らの発言の権能がないのです。これは譬であって、このようにして、永遠の生命に到る者と永遠の死に到る者との相違は、造らるる陶器の原料である土くれに対して陶器造りが持っているのと同じような造る者の権能を以て定められる相違であって、かくして生ずる相違に対して造らるる者は何の発言権もないのであります。もし発言権があるとすればそれは造られた者ではないのであります。

 それでは陶器造りが陶器を思いのままに造るという譬は神による人間創造のことを言っているか。即ち二種の運命は創造と共に決定されるものと解すべきであるか。然りという立場があります。しかし、これは創造でなく、堕落した人類を土くれと言っているのであって、土くれは罪を犯して堕落した土くれの人類であるから、その中のある者は神の憐れみによて生命(いのち)に到る器とされ、ある者はあわれみを受けずして己の罪に従って神の怒りを受ける滅びの器として造られる、という解釈もあります。前者は堕落前選びの説に通じ、後者は堕落後選びの説であります。私は堕落前選びの説が論理的に徹底しており、正しいと思いますが、この二つの立場はともにカルビン主義圏内の論理であるとされています。ウエストミンスター信仰告白はそのいずれの立場にも偏しない表現を採用しております。ロマ書九章は聖定教理に対する反論に対して、人間は己を知り、神を知り、己は造られた者、神は造った者であるという相違とその両者の関係を知ることの大切であることを教えている点で真に重大な教えであると思います。「ああ人よ、あなたは神に言い逆うとは、いったい、何者なのか。造られた者が造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか」。人間はここまで考え到って始めて真の従順に到るのであります。聖定教理はもちろん私たちに真の知恵を与えるものでありますから、私たちはこの教理から如何なる誤った推論をもしないように、また誤った適用をしないように注意し、努力しなければなりません。

 それでは二重予定という教理から私たちはどういう益を受くべきであるか。人類の中の誰と誰とが生命に予定され、誰と誰とが亡びに予定されているということを知ることでしょうか。また自分自身がその何れかに予定されていることを知ることでしょうか。また自分自身がその何れかに予定されていることを予知する知識を与えられることでしょうか。そうではありません。まず、神は右のことを示し給わないからであります。神の聖定意志は歴史に対する意志でありますから、その意志は歴史の実現に伴って啓示されるのであって、歴史的実現の時以前にはまだ人間の目には隠されているのです。従って聖定意志あるいは歴史意志は秘密意志とも呼ばれるのであります。神はこの意志を啓示するには神自身の特別な啓示意志がない限り歴史的実現そのものを用い給うのでありますから、その実現の時に先立って人間が神の秘密なる歴史意志を探り知ろうとすることは不当な、憎むべき占い、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者(申命記一八章)に当るのであります。

 神御自らが用い給う特別啓示は予言者による未来予言であります。それで神は未来予言ということも神ご自身の重大な目的のために己の予言者を用いて人々に与え給いましたけれども、人間の行為の決定は神の秘密意志に基くのでなく啓示意志に基かねばなりません。わが往く途がいつ如何になるかを知らないでも神の御意志が成ることに信頼して、ただ神の啓示意志に服従して行動することが要求されているのです。申命記二九章二九節の「隠れたことはわれわれの神、主に属する。しかし表されたことは我々と我々の子孫に属し、我々にこの律法のすべての言葉を行わせるものである」というのはそうした意味であります。それで二重予定の教理は私たちに誰がどの予定に属しているかを知らせようとする教理ではなく、従ってそういう点を主として論じてはならないのであります。神の聖定意志は人間の行為の基準あるいは土台であってはなりません。行為の基準また土台は神が人間に要求し給う命令意志であって、この命令意志は道徳律法に現われ、また救いの福音において提示されているのであります。聖定は神の行為の土台であり、人間の行為の土台は与えられた律法と福音の言葉であります。

 それでは聖定教理は私たちに如何なる益を与えるものであるか。それは直接に私たちの行為の基準あるいは土台となるべきものではないのですが、然し聖定に基づく神御自身の行為を見ること、注意深く観察することの益は計り知ることが出来ません。それは私たちの心の過ちを強く深く制御するところがあるのです。そしてそれだけでなく、この聖定ー二重予定の教理は結局私たち各自の己が永遠的選びに関係しているのでありますから、この教理は己が永遠的選びの確信の土台として受け取られなければなりません。それ以外に何の目的を以て聖書が之を教えるのでしょうか。それではどうして神の秘密意志を語るこの選びの教理が、いまだ歴史的実現を以て完全に現るる以前に、私たちの各自の永遠的選びの確信のために用いられるのでしょうか。

 信仰に関する教理として救いの確信という一項目があります。自分はキリストによって救いを与えると言い給う神の恵みの中にある、という確信を掴むという心理状態は単にキリストを信ずるというのとは異なるものです。自分の救いは確かだ、自分の信仰は確実だ、という確信であります。この救いの確信は単なる主観的な、可謬的なものでなく、無謬(むびゅう)の確信であります。無謬であってこそ価値があるのであって、可謬的ならば何にもなりません。なぜ無謬かと言えばそれには根拠、謬(あやま)りない根底となるものがあるからです。謬りない根底の上に立つ確信という意味で無謬的確信と言います。私たちはこの無謬的確信を捉える捉え方において弱く、あやまりやすい者であります。それではこの確信の基づくところは何かと言えば、告白の言葉を用うれば 「救いの諸約束の神的真理性と、この約束が与えられる諸恩恵の内的証明と、また我らが神の子であることを我らの霊と共に証言する子たるの御霊の証言」(一八ノ二)であります。これらのことの上に生ずる確信であるので無謬の確信と言うことが出来るのであります。然し、この無謬的確信は掴むことがそれほど容易ではない。神とキリストを信じ、信仰生活をしていてもこの確信は必ずしも信仰と同時に与えられるものではありません。この確信は信仰の対象ではないのですから、確信を信ずるという訳には参りません。それで信者と雖もこの確信を欠く場合がある、ということを告白は次のようによく言い表わしています。

「この無謬的確信は、真の信仰者がこれに与るまでに永い間待ち、また多くの困難と戦うことがありえない如くには信仰の本質に属しない。」(一八ノ三) 更に、

「然しながら、真の信仰者は、神から自由に賜る物を御霊によって知ることを得しめられている故に、特別の啓示なしに、通常の手段の正しい使用によって、これに到達することが出来る」と言って救いの確信は信仰者一般に与えられるものであることを肯定し、「それ故に、己が召命と選びとを確かならしむるためにあらゆる勤勉と尽くすことは凡ての者の義務である」と言って救いの確信に到達するための勤勉を命じているのであります。この最後のところにある「己が召命と選びを確かならしめる」とありますが、救いの確信とは自分が単に信じているということではなく自分が信ずる者になるように神によって召されたということの確信であり、神の召しは神の選びの歴史的実現なのであります。神は永遠的聖定として選んだ者をその目標である光栄に到らしめるために必要な一切の手段を予め定め給うたのであって、それは「選ばるる者は、アダムに於いて堕落しているが、キリストによって贖(あがな)われ、また適当の時に働き給う神の御霊(みたま)によってキリストに対する信仰に効果的に召され、また義とされ、子とされ、聖化され、信仰を通し御力に守られて救いに到る」(三ノ六)のであって、神はこういう救いの手段を用い、それらを通して選ばるる者に光栄を与え給うのですから、この「適当のときに働き給う神の御霊による効果的召命」というものは特に各個人へのキリストの贖罪恩恵の適用実施として各個人の救の実現 神の業の第一歩と言うべきものであって自分の信仰というものからそこにある無謬的土台に基いて、この信仰は神の召命によるのであるという確信に導かれるならば、それはやがて神の選びが自分の上にあるという確信なのであります。

 即ち救いの確信というものは即ち選びの確信となるのであります。予定の教理から私たちが受けるところの最大の益、最も本質的益はここにあると言わねばなりません。それで告白三章「神の永遠の聖定について」の一章は次の言葉を以て結ばれているのです。「八、予定というこの高度の秘義に関する教理の取り扱いは、御言葉に於いて啓示された神の意志に聴き、また従う人々が、自分の効果的召命の確かさから発して、自分の永遠的選びを確信し得るように、特別の慎重さと配慮とを以て為されなければならぬ。斯くして、この教理は真心を以て福音に従う凡ての者に、神への賛美と畏敬と讃嘆との題材を、また謙遜と勤勉と豊かな慰めとの題材を提供するであろう。」 生命への予定は、「キリストに於いて」なされるのであって、従ってキリストを主題とする福音に対する信仰を離れて自分の永遠的選びを確信することは出来ないのであります。

 さて、こうして聖書的啓示意志に聴き従うところの信仰者が自分の信仰生活の中で確信させられる自分の召命の確かさから発して、信仰者が自分の永遠的選びを確信するように選びの教理を取扱うということは聖定教理ー二重予定の中の生命への予定すなわち選びの教理だけがそれに該当する部分として排他的に学ばれねばならぬという意味ではなく、或いは他の部分もこの選びという光の下に照らされ理解され結局予定という教理は全体が救済的な意味において理解さるべきであると言うのでもありません。また万人救済説は結局選びの否定であります。選びは二重予定であり、これが人類の二種の運命に関する神の聖定なのです。 「神の聖定によって、神の栄光の顕れるために、人間と天使とのある者は永遠の生命に選定ー予定ーされ、他の者は永遠の死に前定される。」(三ノ三) 「斯く選定ー予定ーされ、或いは前定される天使と人間とは個別的に、また不可変的に意図され、彼らの数は増すことも減ずることもできないほどに確実であり、決定的である」(三ノ四) 「残りの人類には神は、欲するままに憐れみを施し あるいは止める 己自身の意志の測り難い計画に従って、被造物の上にある己の主権的栄光のために、顧みを与えず、彼らをその罪の故に恥辱と怒りに指定することをよしとし給うた。これは神の光栄ある正義に誉あらんためである。」(三ノ七)

 神は滅びに前定した者をも罰し給う時はその人の自ら犯す罪の故に罰し給うのであって、ここに神の正義の栄光が顕われるのであって、聖定と人間の自由並びに責任との関係の合理的理解は困難であるとはいえ、このような亡びへの予定を含む二重予定的聖定こそ聖定の真の姿であり、更にこれに自然界の一切の出来事をも含めてここに神の永遠的聖定の全貌を見るのであります。そしてこの包括的な全聖定の土台に立って、人類の二重予定を考え、更にその中にキリストに於ける選びを考えることが正しい予定論と言わねばなりません。

 扨て、既に永遠の聖定において「増すことも減ずることも出来ないほどに確実であり、決定的である」ところの選ばるる者の数は少ないか? 勿論その数はいまだ示されていません。過去の歴史をたといよく知ることができたとしてもそれによって得る推論と同一の推定を将来に及ぼすことは妥当でありません。また普通の信仰的活動の出来ない…が多くあります。自分の責任において行為することのできる以前に地上生涯を終える人々が多くあります。こういう人々はどうなるのでしょうか。

 多くの改革派神学者が幼児として死ぬ人々は救われることを主張します。しかしそのことを明言する聖書の言葉のないことが一方に言われます。告白では救われる幼児については「幼少の時死去する選ばれた幼児」(十ノ三)と言い表しています。これは幼少の時死去する児童の全部が救われる、ということを否定したものではないのです。全部が救われるとしても、それは幼児なるが故に、あるいは幼児である故罪がないから、という意味で生命に到るのではないのであります。幼児と雖も人類の最初の罪の罪責の下にあり、その結果として腐敗して人間性を遺伝されているのですから、自分で犯した罪はないとは言え、全然無罪ではないのですから、亡ぶべき者であります。こうして幼児も亡ぶべき人類の一部でありますから、この幼児が全部救われたとしても亡ぶべき全人類の中から選ばれた者と言えるのであります。そうした意味で救われた幼児を「選ばれた幼児」と言ったのです。

 然しこの表現は、幼少の時死去する幼児の悉く選ばれている、という主張をしているのでもありません。選ばれた幼児は、「時、処、方法に関して己が好むままに働き給う聖霊を通して、キリストにより再生させられ、救われる。」 また「御言葉の宣教による外的召命を受ける能力のないその他の凡ての選ばれた者も同様である」と言われているのでありまして、これらの人々は精神的器官の障害等を持っている人々です。ホッジ博士は幼児で死ぬ人々の数はほとんどが人類の半数であることを考えると救われる者の数は相当に多いのである、と言っています。幼児の救いに対する確信はも少し狭くして信者の子供として生まれた者に限定すべきである、という説にも聞くべきものがあります。幼児でも洗礼を受けた幼児は救われるという説は洗礼に魔術的な力を与えている点で誤っていると思います。また、ユダヤ人は今日、不信仰になっているけれども、異邦人の救いが完了する暁には「イスラエル人は、すべて救われるであろう」(ロマ書一一ノ二六)とパウロは言っています。

 選ばれるものの数は非常に少ない、と考えることは当たらないようであります。然し人類の悉くが永遠の生命に到るのではないのであって、滅びる者は人は凡て己の罪の故に、己の罪を愛し追求することによって、キリストを拒むことによって亡びるのであり、救わるる者は凡て己の価値によらず、キリストにおいて罪を赦してキリストの義の故に義として生命を賜う神の恵みによって救われるのであり、かかる二種の人類と二種の究極の到達点という歴史的現実は神の意志による、最も知恵あり、最も聖なる計画を以て、一切の出来事を自由にまた不可変的に決定し給うた神の聖定なのです。聖定教理は高度の秘義を含んでいますが、私たちの救いの確かさの客観的根拠を示してくれる貴い教理であります。聖定の全貌についてその真理を謙遜に学んで、そして私たち各自がキリストの福音への信仰と信仰に基づく生活の中において己の上にある神の恵みの永遠的選びを確信することが出来るようにしなければならないのです。聖定教理についてこうした理解が聖書的であり、また改革派信仰の伝統的理解であると思います。
そして最後に、かかる聖定――二重予定―-選びの神こそ生ける真の神である、と断言してこの講を結びます。

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父親の遺稿(その1)

50年前に亡くなった父・松尾武の遺稿集『神の栄光のために』を出版したのは40年前のことだった。仕事のない終末、妻と徹夜で編集作業をしたことを思い出す。
その巻頭に掲載した「手書きの遺稿」を次兄がデータ化してくれたので、記録のために2回に分けて掲載しておく(原文より改行を多くしてあります)

第八講 契約の神について

「アブラハム、イサク、ヤコブの神エホバ」

人類を無より造り給うた創造主は、創造後の人類を保持し統治し給う摂理者であって、この摂理の中の一つの特別な行為として神は人類と契約を結び給うたのであります。本講においてはこの契約の神について述べたいのです。契約に二種あって、第一は行為の契約であり、第二は恩恵の契約です。第一の契約は人類全体と結ばれた契約であり、第二の契約は神の永遠の御旨(みむね)によって人類の中から選ばれた者と結ばれた契約です。

 第一の契約はエデンの園において結ばれたのです。その時アダムによって代表される全人類は神によって完全に造られたもの、神の像でありました。然し人間には意志の自由が与えられて罪の可能性を持っていたのであります。罪の可能性はありましたが、罪があったのではありません。神自身の像に象られた知識と義と真の聖とを賦与され、心に録された神の律法と、それを成就する力とを持っていたのです。このように道徳的にも完全に創造された神の作品である人間に対して神は一般的な摂理行為をなし給うほかに、一つの特別な摂理行為として契約を結び給うたのです。

 契約というのは二人の契約当事者を必要とするもので、この場合神と人間とを契約の当事者として両者の間に契約が結ばれるのです。当事者の身分の相違のために、この契約の当事者は完全に平等ではなく、言うまでもなく神の意志が先行するのであって、人間の側は神の申し出に応じて契約の当事者となり、示された契約の条件を承認して契約の締結がなされるのであります。 発意は神の側にありますが人間の側の応答を俟って契約は成立するのであって、契約が締結されると契約の条項を神も人間も共に尊重しなければなりません。神がこうした契約関係に入るということは確かに神の側における自発的謙遜であると言わねばなりません。

 エデンの園で「主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取ってよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と創世記第三章に記されていますが、ここに神の豊かな一般摂理の支配の中で、更に一つの特別は摂理行為としてなされた人間に対する神の契約があるのです。禁断の実の律法、それを犯すならば必ず死ぬ、と表現は簡略ですが、その意味の全体を考えると、この表現の側面には若しこの律法を守るならば必ず生きるという他の半面がある訳です。神は今何のためにこの特別な一つの律法を与え給うたかと言えば、人間にこの生命(いのち)を与えるためであったのです。

 この生命とは何でしょうか。創造された状態のアダムが既に持っているところの生命でしょうか。それともその時の生命よりもさらに高いすぐれた生命でしょうか。人間の高い、真の生命すなわち永遠の生命は完全創造ではあったけれども蛇の誘惑に負けて己の可変的な自由意志を悪用して罪におちるという可能性の状態にあり、そのような結果になったアダムの創造直後の生命よりももっと高度の生命であるということは、第二のアダムたるキリストに於ける人間の再創造の事実から明らかであります。それで、アダムがこの生命を守ることによって期待しうる神よりの報いとしての生命は永遠の生命であったというべきであります。永遠の生命は人間の魂が神の愛を受け、神と交わり神を永遠に喜ぶ状態であります。これがこの時の契約の約束のものです。

 然し若し、この命令に背くならば永遠の生命を与えるという契約の中の約束は破棄されて、反ってその反対の結果である永遠の死がその罪の罰として与えられる、という意味であります。ここに言う死は明らかに律法違反の罰としての死であって、罪と無関係に考えられる単なる生物学的死でなく、その死は肉体的死と精神的死をも含む永遠の死であります。それは人間の魂が神の愛を離れて神との交わりを絶たれた状態であります。

 このようにエデンの園で神が人間に命じ給うた「善悪を知る木からは取って食べてはならない」というこの特殊な律法は、実は神が人間をより高い生命に入らしめようとして与えられた契約における条件であったのであります。この条件はこのように人間が自らなす完全な服従でありました。それでこの契約は行為の契約と呼ばれます。この契約は一定の期間の試験期を持ち、この期間における人間の行為の善悪によって生命と死の何れかの途が展開される訳であったのです。神は、食べるな、死ぬから、と命じて人間が服従によって永遠の生命に到る途を指示されたのでありますが、人間は蛇の誘惑、即ち悪魔の誘惑に負けて、神の命令よりも自分の意志と判断と欲望の命令を主として、遂に神に叛き神の命令を踏みにじったのであります。

 この契約においてアダムは人類の代表として行為したので、アダムが今から辿るべき死の途は全人類の辿るべき道となったのであります。神は再び行為の契約を結ぶことを欲し給わず、事実アダムに於いて罪におち、その罪ある腐敗した性質を遺伝されている人類に行為の契約が提供される余地は全然ないのであります。全人類は第一の契約の歴史的結果に従って罪と死との道を、ただ一人例外なく、歩ましめられているのであります。これが第一の契約の締結とその結果です。

 人間が心の中に罪なき神の像を持ちながらどうして善を選ばずして悪を選んだのか。又、こうした結果になるような契約を神は何故に締結し給うたか。これらの問題は有限な人間の理性には解き得ない秘義であります。摂理の知恵を完全に理解し得るものは神ご自身の理性だけであると言わねばなりません。私たち人間はこれらの秘義を解く力はありませんが、然し神をかかる契約の神として知り、神は人間をして神を祝福にまた報酬として喜ばしめ永遠の生命を得しめるために自らの自発的謙遜によってこの行為の契約を結び給うた、という点を覚えたいと思います。此の点は「告白」=ウエストミンスター信仰告白に次のように言われています、「神と被造物との距離はまことに大である為、たとい理性的被造物は彼らの創造主である神に対して服従の義務を負うとはいえ、彼らが自分の祝福また報酬として神を喜ぶことは、神が契約によって表す事をよしとし給うた所の神の側のある自発的謙遜によらずしては決して出来なかった。」(七章一節)

 第二の契約は人類堕落の直後に結ばれました。第二の契約も第一の契約と同様にその与えようとするものは永遠の生命であります。契約の当事者は神と人間でありますが、この場合は人間は罪人であります。但し罪人である人類全体ではなく、罪に落ちている人類の中から神が永遠の選びによって生命に選び給うた者であります。この契約はすべての人に提供されますがその契約が真に締結されるのは選ばれた者に対してであって、それで人類の中に永遠の生命に至らない者があるのです。この契約における条件は人間の行為ではありません。人間は行為の契約において罪を犯し堕落し、行為の契約によっては生命に到りえないものとなったために神は第二の契約を結ぶことをよしとし給うたのですから、この契約における条件は人間が自分でなす義なる行為ではなく、それと全然異なったものであります。

 それは信仰です。信仰というのは自分自身の行為と正反対のもので、信仰それ自体には何らの価値がありません。この信仰とはキリストへの信仰です。キリストへの信仰を持つことがこの第二の契約の場合の条件です。契約の一方の当事者である罪人は自分自身の義は必要でなく、ただキリストを信ずることが条件として求められ、この条件を満たすときに契約に従って永遠の生命が与えられるのです。然しこの条件となる信仰は義と無関係のものでは決してないのであって、いな却って完全の義を受ける導管であって、信仰という導管によって罪人に受けられる完全の義はキリストの持ち給う義です。このキリストの義を信仰によって与えられるのであります。

 このように信仰というのは言い換ゆれば信仰によって賜る賜物としての義なのです。義を持たない罪人の罪をキリストによって赦しキリストの完全の義を賜うという神の御心は全く恩恵的でありますからこの契約は恩恵の契約と呼ばれるのです。神と罪人の間にこうした条件を以て、神は罪人に永遠の生命を与えるという約束を持った契約が結ばれるのです。この場合キリストが神と罪人との間に立ち、契約の仲保者となり給うのです。キリストの仲保なしにはこの契約は締結され得ないのです。このキリストの仲保の務めについて語ることは神の救いの御業そのものについて語る救済論となりますので直接には神観の問題ではありませんが、神はこの神と罪人との契約の仲保者としてイエス・キリストを任命し、人類堕落の直後このことを宣布しその到来を約束し給うたのです。罪ある人類に対する神の恵みの契約は人類堕落の直後に結ばれたというべきであります。こうして創造後の人類に対する神の摂理の業は、一方において一般的に全人類を保持し統治し、更に特別摂理として選ばれたる者のためにその罪よりの救いと永遠の生命の付与を目的として行われることとなったのです。

 人類の歴史は一方には行為の契約の条件を満たさなかった罪の人類をも直ちには滅ぼさずして、これを保持し統治し給う神の一般摂理の一般恩恵の下に展開し、同時に人類の中の選ばれた者のために働く特別摂理の特別恩恵の下に展開し、前者は神の一般恩恵にも拘らず遂にその罪の故に永遠の滅亡に到る運命にあり、後者は地上生活における罪と様々の苦難にも拘らず遂にはキリストによる救い故に永遠の生命を得、歴史の終末を経て遂に栄光の新天新地に到るというこの二つの流れの展開する場であります。人類をまどわした悪魔なる蛇に神は「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕く」(創世記三ノ一五)と告げられた。ここに原始福音があったのであります。

 女のすえ、即ち人類の中から出ずる者が悪魔の頭を粉砕することを語るこの神の宣言は福音すなわち恩恵の契約の第一声というべきものであります。こうして以後の聖書はこの恩恵の契約の発展を語っておりますが、聖書を大別して旧約と新約と呼ぶのはこの恩恵の契約に関して旧いものと新しいものと言う意味であります。恩恵の契約は神を信じキリストに寄り頼む民に対して幾度か結ばれて神の民の救いの確信を堅くするのですが、特にアブラハムに対する契約とモーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民に対する契約は著しいものであります。

 神はアブラハム、イサク、ヤコブに対する契約を忘れずしてエジプトで苦悩するイスラエルの民をモーセを用いてエジプトより引き出して約束の地カナンへと行かしめ給うたのであってそれは出エジプト記一九章以下二四章までに記されています。この契約の締結に当たってモーセは犠牲(いけにえ)の血をとって民に注ぎかけ 「見よ、これは主がこれらすべての契約の言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」と言ったことが記されています。 新約聖書のヘブル書の八章九章を読むとモーセがこの時用いた契約の血は動物の血であったが、これはキリストが自ら流した給うた贖罪(しょくざい)の血のひな型に過ぎないのであって、モーセによって制定された儀式は本当のものの影であり、実体はキリストとその贖罪の十字架であることが教えられています。

 そして前者は旧い契約であり、後者は新しい契約であると言われています。これが旧約と新約の意味であります。旧約時代においてはこの契約はユダヤ民族に与えられ、新約時代においてはユダヤ人と異邦人の区別なくすべての国人に提供されておりますが、旧新約両時代を通じて恩恵の契約に入る者は神に選ばれた者だけであると言わなければなりません。

 恩恵の契約を遺言という名をもって示している聖書の箇所があります。ギリシャ語のディアセーケーを契約とも遺言とも訳することが出来るが、どうしても遺言と訳しなければ意味が通じない箇所があるのです。ヘブル書九章一六節には「いったい遺言には遺言者の死の証明が必要である。遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は効力がない」と書いてあります。これは明らかに恩恵の契約である旧約と新約を遺言という点から説明したものでありますが、然し契約という言葉に代えて遺言という言葉をもってこの恩恵の契約を指す言葉とすることは誤りであると言わねばなりません。ところが英語などでテスタメントというのは遺言という意味です。遺言は遺言者が死ねばその効力を発揮し、遺言者の一方的発意と措置を示していて恩恵の契約の恩恵性を強く示しますが、契約という理解が聖書的であります。

 神が罪人に対して恩恵の契約を結んで、罪人に何らの功績をも求めずただ罪人に代わって完全な義を神に捧げ給うたキリストに対する信仰のみを条件とし永遠の生命を与えることを約束し、その必要なる条件としての信仰は神が自ら御霊(みたま)を与えてこれを起こさせ給うということは徹頭徹尾神の恩恵であることを知ります。その恩恵とは罪人に対する神の愛であり、罪人に対する救済意志であります。この恩恵は創造の秩序においては不必要であり、考えられないことであり、創造秩序と堕落後の一般摂理を自然と呼ぶならばこの恩恵は超自然であります。この超自然的恩恵を私たちは神の善から引き出すことは出来ないのです。恩恵の契約における恩恵は神の善の中にあり、同じく善の中にある一般恩恵とも通ずる恩恵でありますが、その愛心(?)が神の怒りに値するのみである不信と不義の罪人へ向けられるところには自然的理論を以て推し量り要求することのできない超自然性があると言わねばなりません。そして一度この神の超自然的恩恵意志が発動した時、神の属性はこの一点を中心として驚くべき一大活動に入ったのであります。これが契約の計画とその歴史的実現であります。

 神は契約の神として己を示すとき己の名を示し給うのです。その名がエホバです。エホバという名はもちろん人間に分かるように人間の言葉を以て綴られたものであります。神は人間の言葉を用いて私の名はエホバであると告げ給うたのです。出エジプト記三章一三節から一七節に「私は有って有るもの」 又「私は有るというかた」とありますが、この私は有って有るものがつまって更に一人称から三人称になった形がエホバであります。エホバという発音は正確ではなく、この四つの字音から成る名の子音と主(アドナイ)という語の母音をくっつけたものがエホバとなったのです。昔から神の名を読むときに主(アドナイ)と読んでいたのですが、一六世紀の宗教改革の頃から今言ったような仕方で神の名をエホバと呼ぶようになったのです。本当の発音は誰も知らないのです。神の名をみだりに呼んではいけないという所から神の名を畏れて呼ばないでいる中に忘れられてしまったのです。近代の学者の研究によってヤーヴェという説が出ているのですが教会ではまだヤーヴェとは呼んでいません。日本語口語訳では今までのエホバからまた主に逆転しています。

 このように神の名を埋没させることは聖書の意味を不明瞭にし信仰的に損失であると思います。エホバと書いて主と読むようにしたがよいと思います。契約の神の名の発音はそういう問題を持っていますが、その意味は何かといえば、神の永遠的自主的存在者という解釈が告白制定の頃の理解であったのですが、最近の研究によってもっと歴史との関係において歴史の主権的支配者という解釈が採られています。歴史を主権的に支配する者であって、言葉の意味も「私はあろうとする者であろうとする」 「我あらんとする者」となるのです。歴史支配者は歴史の中に救済の意志を成就しようとするのであって、歴史の中に救済意志を己の欲する通りに実現する者と言う意味であります。これがエホバの意味であって、この名がイスラエルに対する神の救いの約束の裏付けとなったのであります。神がこの名を以て呼ばれる時は単に天地の創造者、歴史の一般的摂理者でなく、イスラエルの救済者であり、その救済の約束を歴史の中に必ず実現する神であります。それでこの名は契約の神の名と言われるのであります。神がモーセを遣わして彼によってイスラエル人をエジプトから救い出す、とモーセに言われた時、モーセは神の名を聞いたのです。

 神様、イスラエルの人がお前を遣わした神の名は何か、と問うたならば何と答えましょうか、とモーセは神に答えて神の名を問いました。名はものの実を表わすものとして考えられているのです。神からこの大きな困難な使命をとれとの命を受けた時、モーセは神の名を聞きたかったのです。結局、神様あなたはどういう御性質、御意志の故にこの約束をなしこの命令を私に与え給うのですか、ということを聞く意味で、あなたの名を何とイスラエル人に告げましょうかと言ったのです。それに対して神は、私の名はエホバである、と答えられた。そしてその名は神の約束の民にとって「永遠のわたしの名、これは世々に我が呼び名である」(三ノ一五)と仰せられたのです。

 イスラエルは契約の神を知らなかったのではありません。アブラハム、イサク、ヤコブの神として知っているのです。それで契約の神の名はエホバであることがこの時以前に、アブラハムよりも以前に示されていたと考えることが出来るのでありますが、そのエホバなる名が今ここに再確認され、否、この救済史上最も大きな事件の一つである神の民の出エジプトに当たってその名が神の約束の大いなる裏付け、保証として今までよりも最も明白に示されたとみるべきであります。四百年の間エジプトの地で、啓示なき悲惨な生活の中にあったイスラエルの民には神の名のこの著しい啓示が必要であったのであります。この名は「永遠にわたしの名、これは世々にわが呼び名である」と言い給うのです。私たちは畏れと感謝を以てこの神の名を呼ばなければなりません。

 右に述べましたように、契約神の名は聖書を読むときに主(アドナイ)と読まれ、又ヘブル語聖書がギリシャ語に翻訳された時ギリシャ語の主を意味するキュリオスという語に置き換えられたのであります。こうして主という言葉はもちろん一般俗用には主人というような意味で目上の人間に用いられるのですが、神を主と呼ぶ宗教的な用い方もあるのであって、この宗教的な意味の主という語はエホバの代用語となったのであります。新約聖書でイエスを主と呼ぶことの重大な意味はこの事実にあるのです。あらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する、ということがピリピ書二章一一節に言われていますが、この主とは旧約聖書のエホバの代用語であったというのが新約聖書が書かれたころの事情であったのです。その点を考えますと、イエス・キリストを主と呼んだことは、少なくともキリストの神性を承認したことを意味していると言わねばなりません。そうすると、イエス・キリストとエホバはどういう関係であるかが問題になります。

 旧約聖書ではエホバなる神の唯一性を最も強く教えています。「イスラエルよ聞け。われわれの神エホバは唯一のエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神エホバを愛しなければならない」(申命記六ノ四、五)とあるのです。これは勿論ほかの神々すなわち周囲の民の神々につき従うことがあってはならない、エホバのみを全心全力を尽くして愛しなければならないという意味であります。然し唯一のエホバというのは三位一体の神観とどういう関係であろうか、という問題があります。神はその本質において唯一的存在であり、この唯一的存在者は人格的でありますから、神はただ一人であって他に神々と呼ぶべきものはない、と言えるのです。然し神は人格的には父・子・聖霊の別があるので、神が私と呼び給うときは三人格の共通の言葉としてか、或いはどの人格かが同じく唯一の神を表わすものとして、私と呼んでイスラエルの民に語りか掛け給うのであると言わねばなりません。

 それで唯一(ただひとり)のエホバというように唯一の人格的神は三人格でなく一人格であるかのような表現も生まれるのですが、このことは唯一の神の三人格性を否定していると受け取る必要はないのです。エホバはもちろん一人格的唯一神でなく三人格的唯一神であって、第一人格として、或いは第二人格として、或いは第三人格として唯一の神として語り、またある時は複数人格としての言葉もあるのであります。即ち創世記一章ニ六節には「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り』」とあるのです。旧約聖書において特にその唯一性を示し教え給うた神は新約において三人格を啓示し給うたのであります。

 これは三位一体の神の三人格の間の贖罪(しょくざい)の計画に従って神が罪人と結び給う恩恵契約の仲保者に定められた第二人格なる子なる神が、時満ちて人間となって地上に来たりイエス・キリストとして神と罪人との恩恵契約の仲保者となり自分自身の血を流して契約の保証となり、遺言者の死を遂げ給うという恩恵契約の完全なる実現の時となってはじめて鮮明に啓示されるに至ったのであります。人として生まれたイエス・キリストが実は神性の所有者であることが証拠立てられて、イエス・キリストは第二人格の神であって人性を取って地上に来られた方であることが信ぜられるに至ったのであります。

 新約聖書的信仰はイエス・キリストを主なりと告白し、神の子として崇め服従することにあります。こうしてイエスはエホバであります。旧約時代はエホバと呼び給う神は新約に至って人となり地上に贖罪の十字架を負うべき第二人格をも含めた、というだけでなく、特に第二人格において救いの働きをなし給うところの三人格唯一神性なる神であったのです。この三一の生ける真の神が第一の行為の契約によって永遠の生命に到りえなかったところの今は堕落した罪人を救い、永遠の生命に到らしめるために第二の恩恵の契約を結び給うたのであって、神は救わるるすべての者にとってまことに恵み深き契約の神であります。救わるる者はすべてこの恵み限りない契約の神エホバの名を知り、エホバのみ名だけを神として一心に愛し、エホバの命じ給ういましめに従って生活しなければならないのです。ここに契約の民の信仰生活があるのです。このことを出エジプトの後、約束の地カナンに入る前に、広野においてモーセを通して語られた神エホバの御言葉を以て切々として諭し示すところの申命記の中からただ数節を最後に引用したいと思います。

「イスラエルよ聞け。我々の神エホバは唯一のエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神エホバを愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、務めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」(申命記六ノ四から九)

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