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2019年11月26日 (火)

80年代日米外交の生き証人・コーネリアス飯田氏が死去

 

2019年10月21日、コーネリアス・國裕・飯田が亡くなりました。 彼は「ハレルヤ」を歌いながら天国に行きました。 それは私たちにとって悲しい時間であり、彼の死は非常に突然でしたが、私共は彼が天国で主イエスに賛美を歌い続けていると確信しています。 私共は永遠に、惜しげもなく与えられた神の愛を疑うことはありません。

多くの皆様がご存知の通り、飯田は多くの仕事や肩書を持っておりました。神の御言葉の牧師、米国大統領付き上級外交通訳官、大学教授、講師、作家、コンサルタント、宣教師、父親であり、祖父であり、曾祖父であり、兄であり、夫でありました。
飯田はウェストミンスター神学校から神学士を取得して卒業しました。 彼は1959年に渡辺功子と結婚しました。
カーター大統領、レーガン大統領、H.W.ブッシュ大統領の各米国大統領の日英の外交通訳官として絶好調に達したエキサイティングなキャリアを終えた後、彼と妻の功子はアメリカと日本で過ごしました。 日本では山口県立大学教授を皮切りに、 そこでIカリキュラムを開発しました。その間、山口から車で4時間の大分に丸太小屋(コテージ)を持っていました。 そのコテージは24時間温泉が出ていました。その温泉で数人の新しい信者が洗礼を受けました。

山口県立大学を退職した後、アリゾナ州が飯田夫婦の米国での本拠地になりました。アリゾナ州では長年、グランドキャニオン他興味を惹く所へキャンピングカーで、日本の友人やゲストお連れしていました。飯田夫婦は約65年前に移住したこの偉大な土地をドライブしたり、キャンプしたり、探検するのが大好きでした。 そして、飯田家は、子供や孫の近くのヴァージニア州フェアファックス、に居を移しました。
2017年9月、飯田は再生不良性貧血を発病し、以来血小板減少症のため輸血に頼っていました。 今年の9月、彼はEXJADE(※一般名:デフェラシロクス。慢性貧血などで輸血を受けている患者の慢性鉄過剰を減らす薬)の副作用(※一般的な副作用としてショック、アナフィラキシー、重篤な肝障害、腎障害、胃腸出血などが上げられている)のためほとんど仮死状態で山口赤十字病院に救急搬送されましたが、2ヶ月間後、車いすでヴァージニアの自宅に戻りました。

つい最近、コーネリアスと功子が90歳に近づくにつれ、コテージをキャンパス十字軍にリトリートセンターとして売却し、日本での使命は終わったと結論しました。 10月15日飯田は短い日本訪問から帰国し、調子が良く、健康状態もずっと改善していました。 彼は12月にもう一度日本へ旅行する予定でしたが、地上での彼の時間はたち切られました。 彼は妻の功子、妹の洋子(青木)、娘のユリ(ケリンズ)とメアリー(サール)、息子のケンとその家族の中に生きています。 家族一同は多くの方々の弔意と励ましのお言葉に心より謝意を表します。(Mrs.飯田のFBより)

90歳で亡くなった飯田さんとは、自分が少年時代からの知り合いだった。浦高・明治学院(神学部)在学中から浦和の実家によく遊びに来て、大学卒業後は親父の進んだ米ウエストミンスター神学校で学んだ。卒業後は日本で牧会をするはずだったがアメリカにとどまり、そのうちに「ユダヤ教のイスラエルでキリスト教伝道をする」とイスラエルに行ってしまった。
再会は1972年のこと。イスラエルのロッド国際空港で日本赤軍の銃撃事件(テルアビブ事件)が発生、一人生き延びた岡本公三がイスラエルの軍事裁判にかけられた時だ。日本語・英語・ヘブライ語に堪能だった飯田さんは、現地の日本報道陣に依頼されて法廷に入り日本メディアへの通訳をした。当時『週刊ポスト』の取材記者をしていた僕は、その情報を知るとすぐに彼の実家(浦和市)に行き、飯田さんのお父さんに現地とコンタクトをとってくれるようにお願いした。だが電話盗聴を恐れたのかやり取りは郵便。そのうち帰国したことを聞き日本で会って、岡本公三、日本赤軍、PLO、PFLPなどの情報を教えてもらった。同事件の報道に役に立たことは言うまでもない。

その後飯田さんは、今度は米国務省職員として「カーター大統領随行通訳官」の肩書で帰国した。以来レーガン政権の末期まで、民主党・共和党大統領の対日公式通訳官として活躍、アタッシェとして赤坂の米国官舎に住んでいたこともある。日本と違って守秘義務がめちゃくちゃ厳しい国務省職員なので、国家機密に触れることは教えてくれなかった。それでも、手持ちの情報と意見をぶつけるとそれなりのニュアンが感じ取れる表情で答えてくれた。中曽根康弘・レーガン会談での「不沈空母」「4海峡封鎖」発言はワシントンポスト紙のスクープだった。当然、飯田さんはこの会談に同席、両大統領と日米両通訳の4人しか知らない真実を知っていた。当たり前だが現役時代はまともに答えてくれなかった。

レーガン大統領の2期8年が終わる前に飯田さんは国務省を辞めた。この頃から「日本はアンフェアだ」「アメリカの青年は日本の為に血を流している」「君はそれをなんとも思わないのか」と論争を仕掛けてくることが多くなった。そして自分史的日米関係論の本を出版したいというので講談社から出版する手助けもした。退官後はロンヤス関係から「中曽根平和研究所」の主任研究員となった。言動も少し自由になったため、当時、上智大学の講師をしていた國弘正雄氏(元参議院議員=故人)の授業に招いて、「飯田國裕vs國弘正雄、ダブルくにひろの英語で徹底論争」の授業を仕掛けた。当日僕は仕事を放っぽらかして、ほとんどネイティブ米語を話す二人の90分間トークを学生たちと一緒に聞いた。

ある日の朝、突然電話があった。「中曽根さんから平和研を辞めろと言われた」というのだ。なぜ? すぐに会って話を聞くと、「読売の記者に不沈空母の話をしたら、オフレコと言ったのに書かれてしまった」「中曽根さんが激怒してクビだと言っている」という。帝国ホテルでもう一人のクニヒロさんと3人で善後策を考える。結論は「平和研を辞めて地方大学で職を探す」ことになった。以来、山口県の自宅・湯布院の別荘と、アメリカの自宅との二重国籍生活を送っていた。昨年には『八十年代日米関係の光と翳』を Kindleとオンデマンド版で上梓していた。波乱万丈・毀誉褒貶の生涯だったと思う。

 

 

 

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