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2019年12月 7日 (土)

出会いと別れ……

78歳を迎える誕生日の前日に天に召された姉の納骨式が、11月30日「信州メモリアルパーク豊野霊園」で行なわれた。
小雪が残る小高い霊園に家族、親族、教会員など23人が集まり、讃美歌が台風19号による被害の爪痕が残る長野の町に響き渡った。
3人の息子を育てながら、20年以上にわたり多くの子ども達の里親をしてきた姉の葬儀・納骨式には里子たちが出席してくれた。
なかでも山口三兄弟は家族そろって出席してくれた。そして葬儀後、次男の山口努さんの思い出文が『里親だより』などに掲載された。
彼女の生きた証のひとつとしての里親としての姿を同氏の承諾を得て残しておく。
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里親を失うということ  山口努
(長野県中央児童相談所『里親だより』vol.49 特別寄稿)


優しい人だった。料理が好きで、何を作っても常人離れした美味しさがあった。冗談を言えば「あなたは変わらないね」とつねに笑みを浮かべていた。
もうその笑顔を見ることはない。
今年6月、おばちゃんはこの世を去った。
実母は私が11歳の7月、この世を去った。ちょうどその頃、O家にお世話になった。2歳から施設でしか生活を送ったことのない私にとって「家庭」を味わえた。
それまでの里親さんとは別格の愛情を与えてくれ、願いが叶うならO家にずっといたかったし、施設に帰りたくはなかった。
18歳までお世話になり、社会に出てからも毎年O家を訪ね、母の日には電話をした。
毎年、自分の母親の命日には帰郷し、雑木林に囲まれたO家を訪ね、とりとめのない話をした。
今年の母の日も電話をし「会社を作ったんだって? どんな会社なの?」と聞かれ、冗談を交えながら「詳しくは7月にね。元気でね」と言い、電話を切った。
この会話がおばちゃんとの最後のものになった。
訃報を聞いたとき、喋れなくなった。
 翌日、別れを告げるため帰郷し、冷たくなったおばちゃんが入った棺に立ち上げたばかりの自分の会社の名刺を入れた。
 数年前、兄とは都合が合わず、友人とO家を訪ねたことがあった。毎年夏と冬に一方的に送りつづけた「とらや」の羊羹を手渡し、友人の都合もあり足早に帰ろうとした。
 帰り際、難病を患い、歩くことも困難になっていたおばちゃんは背伸びをし、窓から「Tに会えてよかった」と私に言った。
この日のことなのか、これまでのことなのか、もう知る術はない。
今年も母親の命日にO家を訪ねた。遺影を見ながら、おじちゃんに「おばちゃんは? 出かけてるの?」と聞くと「出かけてるよ」と笑っていた。
帰り際、雑木林の木漏れ日の向こうにおばちゃんが立っていて、変わらない笑顔で見送られている気がした。
里親と里子の関係は肉体が滅びても、心の中で生き続けるものだと思う。永遠に。

 

制度への反骨と感謝  山口努
(長野市の「里親制度発足50周年」記念誌)

 

私は子どもの頃から「制度」が大嫌いだった。
そんな私が今年2月、会社を設立した。すると「制度」ばかりが待ち受ける。役所ではたらい回しにされ、制度をより嫌悪した。だが、心から感謝したい制度がある。
里親制度だ。
2歳から施設で育った私は毎年夏と冬、里親さんにお世話になり、18歳まで育ててもらった。
 最初の里親さんの記憶はなく、その後も曖昧だ。覚えているのは、何をするにもどこかで気を使っていたことだった。それが当たり前だったし、疑ったことすらなかった。
しかし、その経験こそが現在の私を形成してくれた、と心から感謝する自分がいる。
11歳の頃から長田家にお世話になると、突如として気を使わなくなった。それは本当の親子の感覚なのだと思う。私にはその経験がない。
 社会に出て中年になった現在でも長田家を訪れ、実の親子のような時間を送り、私の人生に深く、鮮明な色彩を与えてくれた。
 今年の6月、おばちゃんがこの世を去った。
 火葬場で、遺影だけが残された部屋に私は一人佇んでいた。
 遺影の背後の扉ではおばちゃんが炎に包まれ、別室では、親戚一同が笑顔で昔話に華を咲かせていた。
私は、おばちゃんを一人にしたくなかった。
 笑顔の遺影と私一人の空間。
 冗談を言えば、横目で睨むが、口もとには笑みがこぼれ、慈愛に満ちた表情で私に「あなたは変わらないね」と告げる。もう、あの笑顔を見ることはできない。
 葬式は別れの場だが、その場でおばちゃんの兄弟に会うことができた。弟さんにその数日後、自宅に招待して頂いた。
 そこで「里子との思い出」を弟さん夫婦から聞かせてもらった。おばちゃんは、我々山口兄弟には伝えなかったが、肉親には心からの感謝を伝えていた。
 涙が出てきた。
すると弟さんが「礼子もそれほど愛してもらったのなら、幸せだったはずだよ」と励ましてくれた。
今回、長野市里親会の事業開始50周年にあたっての記念誌だと聞いた。
 この50年、血の繋がりがない人と人とが「制度」の下で出会い、さまざまな間柄を築いたはずだ。
 私にとっては至福な歳月であり、感謝したい「制度」だ。
だからこそ「養護施設と里親制度から人生を生き抜く術を教わった」と私は断言できる。
先人たちはこの制度を創ってくれ、そして守り抜いてくれた。
現在でもこの制度を守るため、懸命に戦っている皆様にこの場をお借りして感謝を述べたい。
 「里親」に育てられ「里子」として、現代を生きる一人として。

 

 

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